『引きこもるという情熱』を読んで

人が引きこもるのは、いまの環境のままでは一個の人間になることができないから。一個の人間になろうとして、その環境を逃れ、引きこもる。実は本人を一番責めているのは本人(「社会的自己」)だが、「自己領域」に十分にこもることができたときに「自分は自分でいい」という自己肯定感にたどり着く。このときポイントとなるのは「十分に」こもること。中途半端なこもり方では、引きこもりはかえって長引くという。

 

長引いた例として挙げられていたのが、学生時代から断続的に引きこもっているというY子さんのケース。この方は大学も出ているし、就職も結婚もしたことがあるけど、結局うまくいかず今は実家に引きこもっている。はたから見ると、たとえば引きこもりが10年に及ぶ人と比べると、引きこもりの程度は軽いと思われるのだけど、著者によれば、十分に引きこもることができなかったから、長引いてしまっているのだそうだ。10年間引きこもり続けたとしても、完全なかたちでこもって滞在期を終えることができれば、そのほうが「正しい」引きこもり方だと。

 

20年も前の本なのに今もそのまま通用する。それだけ引きこもりをめぐる状況は変わっていないのがよくわかる。

 

『小説8050』を読んで

タイトルから、ひきこもりを題材にしていることはわかるけど、そうだとしたら身につまされそうだなーとしばらく手が出なかった本。読み始めてみると、最初から手に汗を握る展開で、ページが進む進む。

ひきこもり生活の細かい描写は「あるある」が散りばめられていて、つい我が家の状況と比べてうーん、と考えさせられることもあったけど、大筋のストーリーがめったに「あるある」なことではなかったから、少し自分から距離を置いて読めた。

ひきこもりの家族として学ぶとすれば、家族も本気で本人と向き合え、ってことでしょうか。

ネタばれしたくないから、内容についてあんまり書けないけど、中高年ひきこもりの話ではないので、思春期のお子さんを持つ親御さんに読んで欲しい。

 

『親を憎むのをやめる方法』を読んで

引きこもり関連本ばかり読んでいたら気が重くなる一方だったので、ちょっと寄り道。

YouTuber 益田先生の本。このタイトルの本を読んだのは、もちろん親を憎むのをやめたいから、もっと正確に言うとやめたかったから。この本を読む前にカウンセリングにも通って親の愚痴をこぼしまくり、それから益田先生の動画を見まくり、本書も読んだ結果、なんとなく親への憎悪も落ち着いてきた気がする。

益田先生は、すべて「運」なんだ、ということを動画でも言われているし、この本でもどこかに書いてあった(はず)。この「運」と言うのが今の私にはしっくりくる。「運」で片づけられるか!と思う部分もあるし、運に左右されない社会が理想であることもわかるけど、「運」なんだ、と思えたら、あきらめがつくというか、自分の努力じゃどうしようもない、ということだから、しょうがないね、と思えたら、そこをスタート地点として、人生やり直せるような気がした。

私の精神状態の変化が身近な引きこもりたちにも影響を及ぼすといいけど、期待はしないのだ。

 

 

『「ひきこもり」と「ごみ屋敷」』を読んで

前に見たドキュメンタリー映画『HIKIKOMORI』に出演していた日本の大学の先生を検索して見つけたご著書。「一般向け」とあり、ひきこもりの家族も読者として想定しているようなんだけど、私にはちょっと難しく。ぱらぱらとめくって目についたところだけ拾い読みするという読み方になった。

フランスのひきこもりは、自分のひきこもり状態について肯定的で、それを一つの生き方(mode de vie)として納得していることが多い、という点は、考えさせられる。我が家のひきこもりも、どちらかというと、そっち側っぽいから。でも、その場合はどういう治療を求めればいいのか、家族はどう対応すればいいのか、我が家の状況に落とし込んで理解することは私の頭では無理だった。残念。またいつか再読するかも。

 

 

『「ひきこもり」から考える-<聴く>から始める支援論』を読んで

著者は当事者でも家族でも支援者でもなく、「ひきこもり」を研究されている大学の先生。フィールドワークとして当事者たちの話を聴くと、彼らは「働きたい」「人と関わりたい」と思っていても、意識とは関係なく体が<動かない>のだと気づく。そして<動けない>理由は、彼らが「生きることの意味」を過剰に意識しているからではないかと考えたという。

そうだったのか。確かにそう考えると、我が家のひきこもりの不可解な言動にも説明がつく。本人に直接確かめたわけではないけど、私から見た限りでは当てはまる。生きる意味がわからなくなっているのだから、進学、就労のことなんて考えられるわけがない。言われてみれば納得だけど、言われなければ気づかない視点でした。

タイトルにもある通り本書は本当は<語る><聴く>がメインテーマ。我が家は今は話ができる状況ではないけれど、本人が<語り>たくなったときに<聴く>耳を持ちたいと思った。

 

映画『HIKIKOMORI フランス・日本』を見て

本ではないけど、ネットでたまたま見つけた、フランス製作のドキュメンタリー映画

フランスの引きこもりの事例と日本の事例、両国の専門家の交流、そして日本の孤独死の現場まで。

個人的には、引きこもりってフランスにもいるの?というのがまず新たな発見としてあり。しかも、本人の様子や親御さんの心配事は日本とそっくり。だけど日本と違うと思ったのは親子の関係性。子どもとまともに会話できないと訴える親に対して、医師は親子で話し合うためには距離が必要と言い、日本のように、まずは親子関係を改善しよう、とはなっていない。そして距離をとるために、本人の同意がなくても数か月間入院させる方法を紹介している。

日本は引きこもり問題のパイオニアとして登場。フランスの精神科医は視察のために日本を定期的に訪れているらしい。この問題で何十年も先を行く日本だけど、日本は何か有効な解決策を示せているのだろうか。日本のやり方は本当にフランスの参考になるのだろうか。

フランス語は全然わからないのだけど、英語のナレーションでは「引きこもり」のことを"social recluse"って言ってたので、recluseってなんだろうと調べたら「世捨て人」の意味でした。なんだか「引きこもり」の呼び名よりも主体性が感じられます。 

asiandocs.co.jp

 

 

『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち』を読んで

引きこもりについてメディアなどでも積極的に発言しているジャーナリストの池上正樹さんの本。10年前の本だけど内容は古くない。

タイトルに「大人の」とあるけれど、不登校をこじらせて引きこもっちゃった年齢だけ「大人」な人よりも、学校はちゃんと卒業したけど社会に出てから挫折した人に主眼を置いている感じ。事例として挙げられている人たちは、退職してから何百件もの求人に応募したり、居場所みたいなところには顔を出したり、著者に接触して窮状を訴えたりしていて、もちろん一人暮らしで生活費に困るという問題は抱えているのだろうけど、実家の自室にこもって社会との接点が一切ないタイプの引きこもりとは一線を画すような。それだけの行動力があるのなら、なんとかなりそうじゃない、と思えちゃう。

子どもの引きこもりをきっかけに母親も精神的に病んで外に出られなくなる話はすごく共感するし、引きこもりと発達障害の関係の話はおもしろかった。

でも、私が今知りたいのは、学校の時点で挫折した人はどうすればいいのか、なんだよな、と改めて気づく。不登校と引きこもりの狭間にいる人たち。前に読んだ「コンビニは通える引きこもりたち」でも、不登校から引きこもりになった人からの相談は少ないと書いてあった。だったらそういう人はどこで何をしているのだろう。